陸軍の部隊

 陸軍の部隊としては、

陸軍歩兵第33連隊が津市久居に、

 陸軍第一気象連隊が鈴鹿市石薬師に、

陸軍第一航空軍教育隊が鈴鹿市高塚町に、

陸軍第七通信連隊が明和町に作られました。

 

(最終更新は2024年5月4日です)


陸軍第一気象連隊(鈴鹿市)

 陸軍第一気象連隊は、気象観測を気象兵を養成する部隊で、1942年に作られ、同年11月に鈴鹿市石薬師に新しい部隊地が作られ、12月1日に開隊しました。

 ちなみに第二気象連隊は「満洲国」の首都である新京(現・長春)、第三気象連隊はシンガポール、第四気象連隊は南京に作られています。

連隊本部前の円型池跡(鈴鹿市石薬師町)

 1941年に鈴鹿市石薬師町(当時は石薬師村)に作られた陸軍第一気象連隊。その本部は東南隅にありました。

 陸軍の本部前には、防火用水を兼ねた円型池が作られますが、そのコンクリート壁の4分の1ほどが残っています。

 また、本部の東側に建てられていた気象観測所のコンクリート基礎も残っています。現在は、畑の下になっていて見ることはできませんが、畑を耕すためにトラクターを入れると、コンクリートに当たってトラクターの刃が曲がって仕事にならないそうです。畑の所有者によると、コンクリート基礎を割ろうとしたものの難しいので、上に土を盛って畑にしたそうです。

 

小規模射撃場の射座(鈴鹿市山辺町)

 山辺町には第一気象連隊の射撃場のコンクリート射座が4基残っています。 

 この射撃場は的までの距離が80mほどで、近距離での射撃訓練をしたと考えられます。的や監的壕は未調査です。

 この射撃場の西北100mには建物のコンクリート基礎も残っていて、基礎の近くから陸軍の境界石柱も1本確認されています。

 

射距離300mの射撃場(鈴鹿市石薬師町)

 陸軍第一気象連隊の西1kmの谷に作られた射撃場は、山辺町の射撃場の4倍ほどの規模があり、全体の遺構が残っていて大変貴重です。

 コンクリート製の銃座は8基でほぼ完存しています。銃座から約300m離れた位置に的を設置したコンクリート基礎と監的壕も残っていますが、戦後畑地にされた時に埋められたので一部しか見ることはできません。的の背後に作られた土塁も一部が残ってます。

コンクリート製の銃座
コンクリート製の銃座
監的壕
監的壕
コンクリート製の銃座
コンクリート製の銃座
的のコンクリート基礎
的のコンクリート基礎

 的のコンクリート基礎には金具の跡がありますが、どのように的を設置したのかは不明です。監的壕はコンクリートの三面張りで、西側の一部だけが露出しています。

 射撃場としては、全域が残っている県内でも唯一の戦争遺跡です。的付近は雑木の多い湿地帯ですので、冬以外は立入ることを避けて下さい。


地下壕(鈴鹿市石薬師町)

 陸軍第一気象連隊の北に隣接する傾斜地にコの字型の地下壕が1本あります。入り口から奥までの長さが10m、内部が11m、高さ2mの壕です。内部は一部で崩落していますが、保存状態は良好です。

地下壕の東側入り口
地下壕の東側入り口
地下壕の西側入り口
地下壕の西側入り口

 地下壕の規模や場所から、民間防空壕ではなく、第一気象連隊による地下壕だと考えられます。地下壕の南に将校集会室があったので、将校用の防空壕の可能性もあります。


陸軍第一航空軍教育隊(鈴鹿市)

弾薬庫とコンクリート基礎(鈴鹿市高塚町)

弾薬庫
弾薬庫

 陸軍第一航空軍教育隊は1942年12月3日に開隊し、組織改編により中部第132部隊、東海帥581部隊と名称を変えています。主な任務は陸軍航空兵の下士官や幹部候補生の養成でした。

 ここで講義や訓練を受け、飛行訓練は近くの陸軍北伊勢飛行場を利用しました。

 戦後に跡地は開拓団に払い下げられ、1970年頃に南半分はモータープール、さらに住宅地(レイクタウン)として使われました。北半分には当時の建物のコンクリート基礎などが多く残っていましたが、最近の開発により次第に少なくなっています。

 その中で弾薬庫は、周囲の盛り土はなくなりつつありますが、コンクリート製建物は完存しています。 

陸軍歩兵第33連隊(津市)

 陸軍歩兵第33連隊は、三重の「郷土部隊」で、連隊は現在の近鉄久居駅の東(津市久居井戸山町)にあり、今も陸上自衛隊の久居駐屯地になっています。ここでは、歩兵第51連隊、第133連隊、第151連隊なども編成されています。

 第33連隊は陸軍第16師団(京都)として1937年の南京占領戦にも参加しています。南京占領戦前後に起こった民間人を多く含む大殺戮は「南京大虐殺」と言われ、その犠牲者は3万人~30万人と言われていますが、第33連隊の『南京附近戦闘詳報』には「俘虜将校14、准士官下士官3083」「俘虜は処断す」と記されています。

また、松岡環『南京戦ー閉ざされた記憶を訪ねて』(社会評論社2002)には、兵士102人の南京附近での体験が書かれていますが、第33連隊の方の証言も多く含まれています。

 なお、自衛隊駐屯地内の戦争遺跡は、「自衛隊まつり」などの公開日以外は見学に許可が必要です。 

第33連隊本部

 自衛隊駐屯地内に残る戦争遺跡で、1925年以前は第51連隊本部として使われていました。

 建物の規模は約48m×10.5mです。

 

第30旅団指令部

 自衛隊駐屯地内に残る戦争遺跡で、1908年に建てられましたが、第30旅団は1925年の軍縮で廃止されています。

 1966年に自衛隊の資料館として整備され、旧陸軍の資料も展示されています。

軍馬軍犬の碑(津市久居野村町)

 津市久居野村町の野田池の東に旧陸軍墓地があり、その近くに「軍馬軍犬之碑」と刻まれた石碑があります。1943年に三重県畜産組合や華北の戦線で軍馬や軍犬を使った部隊の有志が建てたものです。

 15年戦争の中国戦線では、馬や犬や伝書鳩が戦場で使われました。農家などで買われていた馬や犬は軍に調達されて過酷な戦闘に使われ、戦争の犠牲になりました。

 中国大陸には多くの馬や犬が船で運ばれましたが、ほとんど日本に帰ることなく、現地で命を落としたり、遺棄されたりしました。

陸軍第七通信連隊(多気郡明和町)

将校用のコンクリート製防空壕

 陸軍第七通信連隊は、戦闘機や飛行場などで働く航空通信兵を教育・訓練するために1942年に開設され、中部第128部隊と通称されていました。

 付近には建物のコンクリート基礎などが多く残っています。防空壕もその一つで、東半分は宅地造成によって破壊されていますが、コンクリート製の部屋や通路階段が良く残っています。

 2016年に明和町の指定文化財となりました。戦争遺跡として指定文化財になったのは、三重県で初めてです。