日本を空襲に来たB29や小型機の搭乗員は、撃墜されると落下傘で降下しています。
しかし、彼らはごく一部の例外を除いて処刑されました。
また、東南アジアなどで捕虜になった兵隊は、日本の捕虜収容所に運ばれました。
アメリカ兵の他に、イギリスやオーストラリアの兵隊も捕虜収容所に収容され、労働をさせられています。
(最終更新は2023年12月17日です)
1945年6月5日の朝、530機のB29が神戸市の北部に焼夷弾を投下しましたが、その帰路に11機が日本軍機の反撃などで墜落しました。その時に三重にも、名張市と南伊勢町、紀北町長島に墜落し、名張市青蓮寺の山中の墜落現場には搭乗員11名の追悼碑が建立されています。アメリカの搭乗員11名のうち、2名は墜落死、9名はパラシュートで降下しましたが、全員が名古屋と大阪に連行された後処刑されています。
青蓮寺地区の地蔵院青蓮寺では、ご住職が毎年6月5日に11名の搭乗員の供養をして、8月15日には青蓮寺地区から出征して亡くなった兵士の供養をされていましたが、2005年から8月15日に一緒に供養する「平和のつどい」を続けられています。
ご住職によると、お寺の上空をB29が炎を上げながら通過し、部品が落下したそうで、一部が保管されています。墜落現場にはかつて機体片が散乱していましたが、追悼碑が建立されてからは、墜落現場を特定しやすくなり、ほとんど見られなくなりました。
ご住職は「青蓮寺から出征して、帰って来れなかった方も、亡くなった場所で現地の方が供養して下さっていると思う。だから青蓮寺で亡くなった方は青蓮寺で供養したい」という思いで法要を続けられています。名古屋のアメリカ領事館からの参列もあるそうです。
1944年6月、紀州鉱山に「俘虜収容所」が作られ、300人のイギリス兵捕虜が東南アジアから収容されました。このイギリス兵は全員が栄養失調や熱帯性の病気に冒されていて、医薬品の不足や日本の寒さも重なって13名が死亡しました。また、別に3名が鉱山での事故により死亡しました。
最初のイギリス兵墓地は原位置より南にありましたが、採石場に近くて墓が汚れるので1987年に、石原産業が提供した今の場所に移築され、墓石も新しくなりました。地域が墓地の世話を続けられ、イギリス兵との交流も行なわれました。墓地は紀和町の指定文化財になり、現在は熊野市の指定文化財になっています。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内のどこかから残部が出てきましたら、お知らせします。