砲台

 空襲に来る飛行機や、本土戦のための船を攻撃するために、志摩地方を中心に砲台が作られました。

肝心の砲が届かずに敗戦を迎えた所も多かったようです。

(少しずつ更新しています。最終更新は21年8月29日です)


伊勢神宮と高射砲陣地(伊勢市中村町)

 1945年1月に伊勢神宮の外宮に爆弾が落とされたので、同年2月に宇治山田防空隊が配備され、高射砲などを据えました。

 その後、伊勢市(当時は宇治山田市)は数回の空襲によって大きな被害を受けています。

 伊勢市中村町の台地には高射砲の砲側弾薬庫3基が残っていました。3つの弾薬庫の中央に、高射砲を据えたコンクリート基礎も残っていました。  


発掘で現れた砲座
発掘で現れた砲座

 2021年に開発工事が始まり、同年7月20日から伊勢市教育委員会によって3日間の緊急発掘が行われました。発掘によって砲座が検出され、発掘を担当した山本達也氏によるとこの砲座は宇治山田防空隊の前にいた高射砲部隊が作ったものだと判明しました。

 宇治山田防空隊は、前の部隊が残した砲座や砲側弾薬庫を転用して高射砲陣地をつくったと想定されています。

 この高射砲陣地は発掘調査の後、同年8月に消滅しました。

海軍の平射砲台(鳥羽市答志町)

 砥石山山頂から南東約250mの東向き斜面にコンクリート製の砲廓が残っています。砲廓は半分土砂に埋められていて、長さ6.4m、幅5m、高さ2.9mのトンネル状になっています。

 海軍が14センチ砲を設置していて、その台座を戦後に外して鉄工所で台として使っていたという話があります。砲身は答志島の北東にある小築海島の沖に捨てられ、今でも漁網に砲身が引っかかることが時々あるそう

砲廓内部(山本達也氏撮影)
砲廓内部(山本達也氏撮影)

です。

 当時の史料によると、この砲台の南方に同じ14センチ砲を設置する砲台があったようですが、これに関わる戦争遺跡は今の所見つかっていません。

 この砲廓は答志港から砥石山に登る遊歩道から少し入った所に残っていますが、遊歩道から入る道が雑木で少しわかりにくくなっています。