新確認の戦争遺跡①(北中部、伊賀)

『三重の戦争遺跡』(2006年)発刊後にも、たくさんの戦争遺跡が新しく確認されています。このページは『三重の戦争遺跡』に載っていない新確認の戦争遺跡を紹介します。

(最終更新は2024年4月1日です。鈴鹿市を更新しました) 


桑名市

播磨神明社の弾痕と爆弾穴(桑名市播磨)

 

 

投下された爆弾が神社の境内に落ちました。

だいぶ埋もれてわかりにくくなっていますが、今も爆弾の穴(クレータ-)が残っています。

神明社の建物にいくつか爆弾による弾痕があります。

 地域には「神社が爆弾から守ってくれた」という伝承が残っています。

 

いなべ市

下平説教所の被爆梵鐘(いなべ市北勢町下平)

 

 

 戦争中に武器をつくるための金属(鉄や銅)が足りなくなり、金属を供出する命令が国から出されました。お寺の大切な鐘も多くが供出させられました。

 

 下平説教所の鐘も供出されましたが、幸いなことに溶かされるまでに戦争が終わり、お寺に取り戻すことができました。

 

 しかし、三重県四日市市に運ばれた鐘は空襲に遭い、たくさんの弾痕で痛々しい姿になっていました。鐘は今も使われ、戦争の愚かさと平和の大切さを伝えています。

四日市市

第二海軍燃料廠の工場跡と「嘆きの壁」(四日市市塩浜 三菱ケミカル内)

「嘆きの壁」と隣接する工場跡 画像はすべて2010.12.2. 許可を得て撮影
「嘆きの壁」と隣接する工場跡 画像はすべて2010.12.2. 許可を得て撮影

 第二海軍燃料廠の工場跡とその北側に造られた巨大なコンクリート壁が三菱ケミカルの工場敷地内に残っています。

 三重県最大規模の戦争遺跡であるコンクリート壁には、機銃弾痕と思われるものも残っていることから「嘆きの壁」とも呼ばれています。

 工場跡の重厚な内部も良く残っており、第二海軍燃料廠の規模や面影を知ることのできる貴重な戦争遺跡です。

 工場の敷地内なので立ち入りは禁止されていて、見学には許可が必要です。工場の外から見ることも困難ですが、航空写真などでその規模はわかります。

第二海軍燃料廠の変電所と機銃砲台(四日市市塩浜町 三菱ケミカル内)

機銃砲台(西面)と入り口。画像はすべて許可を得て撮影。2010.12.2.
機銃砲台(西面)と入り口。画像はすべて許可を得て撮影。2010.12.2.

 第二海軍燃料廠の変電所の建物が残っていて、厚いコンクリートで造られた建物の屋上には機銃砲台が1基あります。機銃砲台があるのは建物屋上の東南隅で、銃眼は東面と西面に2こずつ、北面と南面に1こずつ作られています。現在、銃眼は内部から金属板で封鎖されています。

 また建物の西部にも変電施設が広がり、当時のコンクリート壁が残っています。建物の北部にもコンクリート壁が残っています。

 どれも大変貴重な戦争遺跡ですが、工場の敷地内なので立ち入りは禁止されていて、見学には許可が必要です。

 

第二海軍燃料廠「山の工場」(四日市市日永、西日野ほか)

 第二海軍燃料廠西方の丘陵に造られた疎開工場(「山の工場」)に関わる戦争遺跡は泊山小学校北にある地下壕2本が知られていましたが、さらに地下壕が確認され現存する地下壕は5本になりました。

 さらに西日野町内にはポンプ施設と伝わる建物のコンクリート基礎も残っていることがわかりました。

 工員官舎も泊村で1棟現存し、笹川町に1棟が移築されていることもわかりました。

ポンプ施設とされる建物の基礎
ポンプ施設とされる建物の基礎
泊村の工員官舎
泊村の工員官舎
移築された工員官舎(笹川)
移築された工員官舎(笹川)
西日野にじ学園の西南に現存する地下壕2本
西日野にじ学園の西南に現存する地下壕2本
地下壕内部。この壕は冠水しています
地下壕内部。この壕は冠水しています

 また、当時の工場跡と考えられるコンクリート基礎なども確認されています。

 さらに、泊村の工員官舎近くに1945年7月24日の朝、模擬原爆「パンプキン」が1発投下され、別の官舎に住んでいた母子2人が亡くなり、ため池が決壊したことも、最近の調査で判明しています。


第二海軍燃料廠の半地下式倉庫(四日市市西日野町)

 四日市市西日野町の南部丘陵公園に接する農園にコンクリートの基礎が残っています。これは半地下式倉庫の基礎です。

 鈴鹿市稲生町に残っている鈴鹿海軍航空隊の半地下式倉庫の基礎とよく似ていて、平行する2本の基礎からドーム状に鉄などを出して屋根にするものです。

 ここは、南側の基礎が消滅していて、北側のみが残っています。基礎の中央が少し離れているので、2棟あった可能性もあります。

 コンクリート基礎から鉄骨が何本も出ていることもわかります。


四日市空襲「追憶の碑」(四日市市山之一色町)

 四日市山之一色町の山三瓦工業の敷地に「追憶の碑」が建てられています。戦争中、ここはこんもりした土手で、そこにコの字型の個人用防空壕が掘られていました。

 1945年6月18日の四日市空襲の時、防空壕を焼夷爆弾Ⅿ47が直撃し、中にいた10人のうち3人が亡くなりました。他にも、近くに少なくとも3発のM47が落とされ、1軒が全焼しています。

四日市市山之一色町の民間防空壕

 民家の裏の山裾にありますが、2019年の大雨で入り口部分が崩れて狭くなりました。かつて竹藪でしたが、伐採した後に崩れたそうです。

崩落で狭くなった入り口。
崩落で狭くなった入り口。
人のいる所が入り口。
人のいる所が入り口。

 入り口が上から崩落したので防空壕の長さが短くなりました。また、入り口が狭くなったために入りづらくなりましたが、奥の部分は良く残っています。


鈴鹿市

第一鈴鹿海軍航空基地の第二機銃砲台弾薬庫(鈴鹿市東玉垣町)

 鈴鹿海軍航空隊は1945年3月1日に本土戦に向けて第一鈴鹿海軍航空基地になります。本土戦に備えて、滑走路の周りに飛行機を隠す掩体を作り、滑走路と掩体を誘導路で結びました。

 周囲には防御用の砲台が作られ、高角砲が3ヶ所、25mm機銃が6ヶ所に据えられていました。

 ほとんどが戦後の開発で消滅しましたが、第二機銃砲台のコンクリート製弾薬庫1棟が残っています。

 

三菱重工業鈴鹿工場のコンクリート基礎

 現在の鈴鹿市東玉垣町に建てられた三菱重工業鈴鹿工場第一組立工場の南側壁面のコンクリート基礎が、鈴鹿市立千代崎中学校の自転車置き場近くに残っています。

 鈴鹿工場の敷地は広大で、千代崎中学校もその一部ですが、現存している戦争遺跡は今の所、このコンクリート基礎だけです。

道路になっている引き込み線の跡
道路になっている引き込み線の跡

 鈴鹿工場と、その西に作られた三菱重工業鈴鹿整備工場などは引き込み線でつながっていました。

 その線路跡が、現在は道路になって残っています。

この近くには鈴鹿海軍航空隊なども密集していて、当時も軍産複合体になっていたことがよくわかります。


三菱重工業鈴鹿工場の疎開工場(鈴鹿市稲生)

 サーキット道路沿いの畑地にコンクリートの基礎が2本見えます。これは三菱重工業鈴鹿工場(現・東玉垣町)の疎開工場2棟の跡です。

第一工場の基礎
第一工場の基礎

 

 基礎から推定される規模は、東側の第一工場が東西31ⅿ、南北18ⅿ。西側の第二工場が東西25ⅿ、南北18ⅿです。南に面した丘陵には、コンプレッサー用倉庫や便所を作ったと考えられる平坦地も残っています。また、丘陵東端の福祉施設の駐車場にはコンクリート面が残り、疎開工場の一部と考えられます。 

 さらに南方の伊奈富神社北方にも平坦地が残り、第三、第四工場が建てられていたことが資料から判明しています。

 これらの工場で作られていた部品は、今のところ不明です。

東から見た2本のコンクリート基礎
東から見た2本のコンクリート基礎

 コンクリート基礎には斜めに溝が掘られ、ドーム状の天井が造られていたと想定されます。これに対応するように山裾にもコンクリート基礎が造られています。

第二工場の基礎
第二工場の基礎

鈴鹿海軍工廠のコンクリート水槽(鈴鹿市平野町)

 2010年の平田送水場の改修に伴う平田遺跡の調査の時に出土しました。

 コンクリート製の水槽で、内部はアーチ構造になっていて、亀山市関町に残っている鈴鹿海軍工廠・関防空工場のコンクリート水槽に似ています。

 発掘調査後に埋め戻されていますので、現在は見ることができませんが、地中に残っています。

 なお、鈴鹿市考古博物館が2013年に発刊された『平田遺跡発掘調査報告書(第19次、第22次)』の144ページ~146ページに水槽についての記述があり、図面も掲載されています。近代の遺構についても詳細に調査報告をされているのが嬉しいです。

 発掘調査報告書はこちらから


陸軍第一気象連隊本部前の円型池跡(鈴鹿市石薬師町)

 1941年に鈴鹿市石薬師町(当時は石薬師村)に作られた陸軍第一気象連隊。その本部は東南隅にありました。

 陸軍の本部前には、防火用水を兼ねた円型池が作られますが、そのコンクリート壁の4分の1ほどが残っています。

 また、本部の東側に建てられていた気象観測所のコンクリート基礎も残っています。現在は、畑の下になっていて見ることはできませんが、畑を耕すためにトラクターを入れると、コンクリートに当たってトラクターの刃が曲がって仕事にならないそうです。畑の所有者によると、コンクリート基礎を割ろうとしたものの難しいので、上に土を盛って畑にしたそうです。

 

陸軍第一気象連隊・小規模射撃場の射座(鈴鹿市山辺町)

 山辺町には第一気象連隊の射撃場のコンクリート射座が4基残っています。 

 この射撃場は的までの距離が80mほどで、近距離での射撃訓練をしたと考えられます。的や監的壕は未調査です。

 この射撃場の西北100mには建物のコンクリート基礎も残っていて、基礎の近くから陸軍の境界石柱も1本確認されています。

 

陸軍第一気象連隊・射距離300mの射撃場(鈴鹿市石薬師町)

 1941年に鈴鹿市石薬師町(当時は石薬師村)に作られた陸軍第一気象連隊。その戦争遺跡はほとんど残っていませんが、近くに作られた射撃場は銃座などが良く残っています。

 コンクリート製の銃座は8基でほぼ完存しています。銃座から約300m離れた位置に的を設置したコンクリート基礎と監的壕も残っていますが、戦後畑地にされた時に埋められたので一部しか見ることはできません。

コンクリート製の銃座
コンクリート製の銃座
監的壕
監的壕
コンクリート製の銃座
コンクリート製の銃座
的のコンクリート基礎
的のコンクリート基礎

 的のコンクリート基礎には金具の跡がありますが、どのように的を設置したのかは不明です。監的壕はコンクリートの三面張りで、西側の一部だけが露出しています。

 射撃場としては、全域が残っている県内でも唯一の戦争遺跡です。的付近は雑木の多い湿地帯ですので、冬以外に立入ることは避けて下さい。


陸軍第一気象連隊の地下壕(鈴鹿市石薬師町)

 陸軍第一気象連隊の北に隣接する傾斜地にコの字型の地下壕が1本あります。入り口から奥までの長さが10m、内部が11m、高さ2mの壕です。内部は一部で崩落していますが、保存状態は良好です。

地下壕の東側入り口
地下壕の東側入り口
地下壕の西側入り口
地下壕の西側入り口

 地下壕の規模や場所から、民間防空壕ではなく、第一気象連隊による地下壕だと考えられます。地下壕の南に将校集会室があったので、将校用の防空壕の可能性もあります。


軍施設のコンクリート基礎(鈴鹿市国分町)

 鈴鹿市国分町の菅原神社北西の丘陵上に軍施設のコンクリート基礎の一部が残っています。

 この施設のある場所は志摩半島から四日市方面まで見渡すことのできる眺望の良い場所です。

 地元の方によると、この施設は軍隊が使用していた比較的大きな建物で、施設内に便所もあったということです。

 陸軍か海軍か、どのような施設だったのかなど、詳しいことはわかっていません。

 なお、菅原神社の第二駐車場の場所には1~2本の地下壕があり、そのうち1本はJ型をしていたそうです。コンクリート基礎との関連も考えられます。

民間防空壕(鈴鹿市国分町)

 鈴鹿市国分町の道路沿いに3つの穴が並んでいます。

 北、中央、南の3つの穴のうち、南の穴が比較的よく開いていますが、それでも内部に入ることは困難です。もともとはどの穴も髙さ1.2mぐらいはあったようですが、崩落が進んでいます。

中央の壕の入り口
中央の壕の入り口
南の壕の入り口。道沿いに3つの入り口が続く。
南の壕の入り口。道沿いに3つの入り口が続く。

 内部の状況は不明ですが、北と中央の穴がコの字型になっていて、南の穴とは別のようです。

 戦後すぐの時期からこの3つの穴があったそうです。紀北町東長島片上の民間防空壕にもよく似ています。


民間防空壕(鈴鹿市中冨田・山地区)

 鈴鹿市中冨田の山地区に、コの字型の民間防空壕が1本残っています。この防空壕は山地区にお住まいだった方(故人)がお一人で掘られ、近所の方が一緒に入ったそうです。

意図的に封鎖された西側の入り口
意図的に封鎖された西側の入り口

 地下壕入り口から奥までは5.5m、東西の長さは13.7mでほぼ完存していますが、西側の入り口は意図的に廃棄物で塞がれています。集落から道を上がってくると地下壕が見えるために、子どもたちが入らないように塞いだそうですが、土などを除去すれば、すぐに復元できそうです。

 とても保存状態の良い民間防空壕です。

 

東側の入り口
東側の入り口
地下壕内部。東側から西を見る
地下壕内部。東側から西を見る

民間防空壕(鈴鹿市地子町)

 民家北側の山林に1本が現存しています。全長約8m。内部でゆるやかに曲がり、東側と北側に貫通しています。

内部から東側入り口を見る
内部から東側入り口を見る
東側入り口
東側入り口

 今は残っていませんが、壕の南側にも防空壕が掘られていたそうです。


民間防空壕(鈴鹿市国府町北一色)

 鈴鹿市国府町北一色の丘陵斜面に3つの穴が開いています。中央の穴が防空壕の入り口で、内部は十字型です。左の穴は十字型の壕の天井が崩落したものです。右の穴は、十字型とは別の壕でごく浅いものです。

 十字型地下壕は奥行5m、左右の長さ6.5mで、高さは1.2mです。

十字型地下壕の奥から入口を見る
十字型地下壕の奥から入口を見る
防空壕の全景
防空壕の全景

 十字型の壕は、天井の一部が崩落していますが、非常に良く残っていて貴重です。

 この斜面の前に、当時は民家があり、その家の方が掘った防空壕だとわかっています。


亀山市

魚雷倉庫用の地下壕(亀山市三寺町)

 亀山市三寺町の山裾に全長約22mの地下壕が現存します。壕の東側に地下壕の痕跡が2ヶ所ありますが、地域の方によると深い壕は1本だけで、残りは掘りかけだったそうです。

地下壕の入り口。
地下壕の入り口。
地下壕の奥から入口を見る
地下壕の奥から入口を見る

 三寺町のお寺に海軍が駐屯し、トラックで魚雷を何度も運び、スクリューなどの検査をしていたそうです。

 この地下壕も魚雷を隠すために掘られましたが、未完成のまま敗戦を迎えました。


弘法寺の海軍壕とトロッコの線路(亀山市下庄町・弘法寺)

 弘法寺の山中にY字型の地下壕が残っています。東西に約30mの地下壕が貫通していましたが、現在は東側入り口は崩落しています。西側入り口から入ってすぐ北側に約30mの地下壕が作られています。  

北側に伸びる地下壕
北側に伸びる地下壕
現存するトロッコのレール
現存するトロッコのレール
西側の入り口
西側の入り口
西側入り口を内部から見る
西側入り口を内部から見る

この地下壕周辺で海軍の部隊がトロッコを使って地下壕を掘っていて、近くにL字型をした地下壕があったこともわかっています。また、別の場所でも地下壕の痕跡と考えられるものもあります。トロッコの軌道が道路として使われている所もあります。

 海軍が何を保管するために地下壕を掘っていたのかは不明です。

 

 海軍の部隊は弘法寺の民家に分宿していました。戦後、トロッコのレールは弘法寺地区に運んで再利用しましたが、1本だけ現存しているのは貴重です。


下庄の地下壕(亀山市下庄町)

 JR下庄駅から南に伸びる谷に、南北に貫通する地下壕が残っています。地下壕は全長53mで、南入り口は崩落していますが、内部はほぼ完存していて貴重です。

内部から南側入り口を見る
内部から南側入り口を見る

 この地下壕は弘法寺の地下壕からも近いので、海軍が掘った可能性が高いですが詳細不明です。

 この地下壕の近くに朝鮮人労働者の飯場があり、飯場の子どもたちが地域の小学校の教室に入りきれず、廊下で学習していたという証言もあります。

 朝鮮人労働者と地下壕の関連性が考えられます。

 

地下壕の南側の入り口
地下壕の南側の入り口
地下壕内部から北側入り口を見る。
地下壕内部から北側入り口を見る。

民間の防空壕(亀山市白木町)

 民家の裏の山裾に深さ3mほどの防空壕が完存しています。奥には椅子状のものもあります。防空壕の隣には、掘りかけて止めたくぼみも残っています。

 この防空壕を所有されている方はうどん屋さんを経営されているので、営業時間内なら防空壕の見学が可能です。

 白木町の丘陵は掘りやすく崩れにくい土質なので、近くにもL字型の民間防空壕が残っています。

津市

空襲で崩れた門(津市大倉)

 1945年7月24日(火)の爆弾による空襲で津市阿漕駅付近では64名が亡くなっています。津市大倉の民家の門には爆弾によって崩れた跡が鮮明に残っています。この空襲で家が倒れ、さらに4日後の焼夷弾空襲によって消失しましたが、門は残りました。

 爆弾によってどちらの門も片面が崩れ落ち、戦後に修復されています。空襲の爪痕を残すものとして持ち主によって大切に保存されています。

半田の地下工場(津市半田)

コンクリート床に作られた機械台座
コンクリート床に作られた機械台座

 近世からの磨き砂採掘場を転用して津市半田には住友がプロペラを製作する地下工場が作られました。

 内部が危険なため調査が進みませんでしたが、2023年に良好に残されている部分が見つかりました。地下工場の部分にはコンクリート床が貼られ、機械を設置する台座もコンクリートで作られています。機械の置き方などを細かく計画して作られていることがわかります。

 略測をしていますが、コウモリの貴重な生息場所でもあるので、コウモリの生態系を優先して少しずつ略測をしていきます。

 県内最大の地下工場であることは確実です。

真光寺の被爆梵鐘(津市久居元町)

 真光寺の梵鐘にはくっきりと弾痕が残っています。

 ご住職のお話によると、この梵鐘は戦時中に供出されて四日市市の石原産業に運ばれ、そこで機銃弾を受けたそうです。

 戦後、お寺の檀家さんが荷車を引いて四日市まで梵鐘を取りに行ったそうです。

 なお境内には、B29に体当たりした後、亡骸が落下傘で真光寺に降りてきた陸軍パイロットの中川裕さん(広島出身)の追悼碑も建てられています。


久居農林高校の防空壕

 県立久居農林高校(津市久居)の校舎南側の丘陵斜面には戦争中に多くの防空壕が造られました。1本だけ現存しますが、入り口が流土で狭くなり、内部はゴミが散乱している状態でした。

防空壕内部から入り口を見る。(19.12.15.)
防空壕内部から入り口を見る。(19.12.15.)

 同校のガーデニングコースの生徒が防空壕の周辺を庭園にして、土木機械コースの生徒が説明板を作りました。壕の入り口には安全のための着脱できる柵も設置されています。

 この防空壕の入り口にはコンクリート門柱があることもわかり、扉をつけたと考えられる金具も見つかっています。爆風への対策が取られているので、学校の中でも大切なものを保管していたと考えられます。

 2020年秋に整備が完成した防空壕では、近くの小学校の子どもたちを招いて平和学習もおこなわれました。放送部が取り組みの様子をまとめた番組は、全国大会にも出場して準決勝まで進んだそうです。

防空壕周辺の整備(21.11.7.)
防空壕周辺の整備(21.11.7.)
整備前の防空壕入り口(19.12.22.)
整備前の防空壕入り口(19.12.22.)

 2019年度に同校の放送部が中心となってプロジェクトを作り、防空壕の整備を開始しました。

 中のゴミを回収し、流土や根を撤去して入り口を広くしました。

整備された防空壕(20.11.7.)
整備された防空壕(20.11.7.)
高校生が作成した説明板(21.11.7.)
高校生が作成した説明板(21.11.7.)

伊賀市

名古屋陸軍兵器補給廠の地下壕(伊賀市新堂)

 伊賀市新堂で、地下壕の天井部が崩落して山道が陥没しています。内部には地下壕の一部が残っていますが、地下壕の入り口付近は戦後米軍が爆破しています。

 新堂地区では、この地下壕の他にも多くの地下壕が作られていました。近くの民家では九四式山砲の薬莢が保管されています。 

九四式山砲の薬莢
九四式山砲の薬莢
天井部が崩落開口した地下壕
天井部が崩落開口した地下壕

 これらの地下壕は名古屋陸軍兵器補給廠・伊賀分廠の中の新堂集積所に関係するものです。

 判明した地下壕はすべて米軍によって爆破されていますが、今後さらに面的な調査が必要で、地下壕が残存している可能性もあります。

 


旧・青山トンネル工事殉難者の供養塔(伊賀市伊勢路)

 伊賀市伊勢路の国道165号線沿いにある青山大師の横に供養塔があります。

 これは1928年~30年に行われた参宮急行電鉄(現在は近畿日本鉄道)の旧・青山トンネル工事で犠牲になった16人のために建てられた供養塔です。

 1930年に施工業者の大林組が建てています。

刻まれている犠牲者のお名前
刻まれている犠牲者のお名前

 2002年に地元の中学生が調査をして、犠牲になった16人のうち8人が朝鮮人労働者であったことがわかりました。その翌年からこの地で殉難者の慰霊祭が開催されています。

 日本の植民地支配を物語るとともに、中学生も見事に歴史の語り継ぎ部になれることを伝える供養塔です。