新確認の戦争遺跡②(南部)

『三重の戦争遺跡』(2006年)発刊後にも、たくさんの戦争遺跡が新しく確認されています。このページは『三重の戦争遺跡』に載っていない新確認の戦争遺跡を紹介します。

(2023年12月11日に「紀北町の機銃弾痕」を追加しました。) 


松阪市

三重海軍航空隊の伊勢寺演習地(松阪市岡山町ほか)

 松阪市の岡山町集会所に「海軍用地」と刻まれた石柱が6本集められています。これは三重海軍航空隊が作っていた演習地などの施設の境界を示すものです。

 付近には兵舎や簡易倉庫などが作られていました。

また周辺では「池に二枚羽の水上機が浮かべてあった」「飛行機の格納庫や滑走路、地下壕があった」「戦後、占領軍が来て飛行機などを焼き、地元の人は後で部品を拾いに行った」という証言もあります。

多気郡大台町

拓魂碑と「三重日輪兵舎」(多気郡大台町弥起井)

拓魂碑(左奥)と「三重日輪兵舎」(右手前)
拓魂碑(左奥)と「三重日輪兵舎」(右手前)

 三重で最も多くの満蒙開拓団を出した多気郡と度会郡。宮川ダムの左岸にある広場に拓魂碑と「三重日輪兵舎」があります。

 拓魂碑は1969年に建てられ、満蒙開拓団や満蒙青少年義勇軍で犠牲になった1500余名を追悼しています。

「三重日輪兵舎」は1973年に建てられました。日輪兵舎とは青少年義勇隊が最初に訓練した茨城県の内原などにあった兵舎です。その形を模して作られています。内部には写真や実物資料が展示され、開拓団員名簿が時計回りに、義勇隊員名簿が反時計回りに掲げられています。建物の老朽化が進み、修復または新資料館の建設が望まれます。

度会郡大紀町

横掛陣地のトーチカ(度会郡大紀町野添)

 三重県内のトーチカは志摩市の海岸に集中していますが、このトーチカは志摩から直線距離でも40km近く離れた山間部にあります。トーチカは「寺山」の山頂近くの尾根に造られ、重機関銃で山裾の道路を狙ったものと考えられます。

 トーチカの銃眼は一つで、銃眼の外側に鉄製のフックが残っているのが注目されます。これは銃眼につけた蓋を開閉させるためのものと考えられます。海岸部のトーチカで

銃眼外側に残る鉄製のフック
銃眼外側に残る鉄製のフック

は塩分などで残りにくいので貴重です。

 近くにはコの字型の地下壕や「タコツボ」と呼ばれる個人用の穴の痕跡2こも残っています。コの字型地下壕はトーチカを構築中に敗戦を迎えたと考えられます。

 志摩半島でトーチカを造ったのは陸軍の歩兵第442連隊ですが、その一部がこの周辺に配備されていたことがわかっています。海岸部以外でも本土戦陣地が本格的に造られていたことがわかります。

  参考文献:山本達也「三重の軍事遺跡(7) 大紀町野添の本土決戦陣地」『軍装操典第132号』(2018)

鳥羽市

加布良古陣地(鳥羽市安楽島町)

 海軍の特攻基地(震洋)で有名な加布良古(かぶらこ)岬に、陸軍のトーチカの基礎が残っています。

 トーチカは大浜の海岸を東から望む所に作られ、長方形に土と岩盤を掘り、側面をコンクリートで固めています。トーチカの背後には通路壕が作られ、岩盤が直角に削られています。背後の斜面には地下壕もあったそうですが、今は消滅しています。

 加布良古岬の北側は海軍の特攻基地、南側は陸軍の本土戦陣地と分けられていたと考えられます。

トーチカのコンクリート基礎
トーチカのコンクリート基礎

行者山陣地(安楽島町)

 行者山陣地は安楽島海水浴場を見下ろす尾根の南側にあり、3本の掘り込みが残っています。安楽島海水浴場に上陸した米軍を攻撃するための陸軍陣地です。

 掘り込みAは、陸軍が来る前に、軍の命令で安楽島小学校の校長と5年生の数人で掘ったそうで、その後この場所に来た陸軍のことは知らないそうです。

「命令で火薬庫を掘った」という証言があります。

掘り込みB
掘り込みB

 掘り込みCは崩落が進んで、くぼみのようになっています。ここに造られていた地下壕が天井から崩落した可能性があります。

 安楽島地区には敗戦直後に、陸軍の部隊から「250着の野良着を用意してくれ」と頼まれたという話が残っていて、兵隊が少なくとも250人いたと考えられます。兵隊が掘った壕だけでなく、小学校の校長と子どもが掘ったものもあることが注目されます。

掘り込みA
掘り込みA

 掘り込みBは明らかに陸軍が掘った通路壕で、延長に地下壕が続くと考えられますが、現在は残っていません。地下壕で尾根を貫通させて、砲台陣地を造ろうとしていたのかも知れません。

掘り込みC
掘り込みC

小田谷陣地(安楽島町)

 小田谷陣地は安楽島でもっとも標高の高い安楽島第一配水池から南に下る谷にあり、現在は居住壕と機械のコンリート台座が残っています。

 居住壕はコの字型ですが、未完成で内部が貫通せず、東側と西側の入り口に分かれています。 

居住壕の西側入り口
居住壕の西側入り口
居住壕の東側入り口
居住壕の東側入り口

 内部は崩落も少なく良く残っています。西側入り口の奥には当時の坑木も散在しています。おそらく尾根上に加布良古水道方面を狙う砲を据え、反対側に居住壕を作ったと考えられます。 


 機械のコンクリート台座は、居住壕から少し下った所にあります。2基作られていて、形状から発電機とコンプレッサーの基礎と考えられます。

 陸軍の機械台座は、三重県では他に見つかっておらず貴重です。

 さらに下った所に地下壕の一部が残り、他にも地下壕の痕跡かも知れない遺構もあります。安楽島地区から小田谷に続く旧道沿いに陸軍の監視所が作られ、宿舎跡が残っています。家屋は戦後に修築されていますが、基礎と床面は当時のまま残っています。

 戦争中に山の上まで大砲を運び上げたという地域の証言もありますが、砲台を作ったと考えられる尾根付近は戦後の開発により削平されています。

2基のコンリート台座
2基のコンリート台座
監視所の宿舎。基礎や床は現存している
監視所の宿舎。基礎や床は現存している

白浜陣地(鳥羽市菅島町)

 白浜陣地は菅島の「しろんご浜」の西の谷にあり、陣地壕1本などが残っています。

 陣地壕は深さ約10mで短いですが入り口は完存していて、入り口の外は通路のために崖を削平した様子もよくわかります。

 陣地壕は未完成ですが、しろんご浜まで壕を伸ばしてトーチカ状のものを作り、しろんご浜に上陸した敵を射撃する目的だったと考えられます。

 また、陣地壕の南西にも方形の掘り込みがあり、陣地壕との関連が考えられますが、詳細は不明です。

 

 陣地壕は、しろんご浜のすぐ西側の谷を降りれば見つけやすいですが、山歩きに慣れていない場合は案内が必要です。

 

参考文献:扇野耕多「研究ノート 菅島の戦争遺跡」『皇學館論叢第51巻第3号』(2018年)

陣地壕の入り口
陣地壕の入り口

アゴケ谷陣地(鳥羽市菅島町)

 アゴケ谷陣地は菅島の「監的哨」の近くにあります。

 深さ7mほどの地下壕が残り、未完成のまま敗戦を迎えたと考えられます。地下壕入り口から通路壕が3mほど作られていて、今もよく残っています。

「監的哨」の周辺にもいくつかの掘り込みが残っていて、関連が考えられます。

 遊歩道から西に斜面を降りた所にありますが、見つけにくいので案内が必要です。

 

 参考文献:扇野耕多「研究ノート 菅島の戦争遺跡」『皇學館論叢第51巻第3号』(2018)

地下壕内部を入り口から見る
地下壕内部を入り口から見る
陣地壕の入り口
陣地壕の入り口
入り口から延びる通路壕
入り口から延びる通路壕

ボシ山陣地(鳥羽市菅島町)

 ボシ山陣地は、遊歩道から監的哨に登るT字路から、南に下る谷にあります。谷の東側に陣地壕、その西側に交通壕や、掩体と考えられる掘り込みが3ヶ所あります。

 陣地壕は長さが約16m、幅と高さは約2mで、中には坑木が残っています。 

陣地壕内部に残る坑木
陣地壕内部に残る坑木
掩体と考えられる掘り込み
掩体と考えられる掘り込み
陣地壕の入り口から内部を見る
陣地壕の入り口から内部を見る
陣地壕の入り口
陣地壕の入り口

 遊歩道から近いですが、道のない斜面を下りるので、案内があった方が無難です。

 

参考文献:扇野耕多「研究ノート 菅島の戦争遺跡」『皇學館論叢第51巻第3号』(2018年)


長崎陣地(鳥羽市菅島町)

 長崎陣地は菅島の南東にある黒崎(長崎鼻)の近くにあり、弁天神社の東90mの丘陵北向き斜面にあります。確認した菅島の3ヶ所の陣地壕の中では最も規模が大きく、全長45mで入り口は二ヶ所、一ヶ所の銃眼はおんま浜を臨んでいます。

地下壕西端の入り口を内部から見る
地下壕西端の入り口を内部から見る
地下壕内部の掘削跡
地下壕内部の掘削跡
地下壕西端の入り口
地下壕西端の入り口

 銃眼から機関銃でおんま浜を狙う銃室と棲息スペースが通路壕で結ばれていて、複雑な壕の形は爆風除けと考えられています。保存状態の良い陣地壕です。

 長崎陣地へ行くには弁天神社を目ざしますが、そこからは道がなく見つけにくいので、案内が必要です。

地下壕東端の銃眼と銃室部
地下壕東端の銃眼と銃室部

参考文献:扇野耕多「研究ノート 菅島の戦争遺跡」『皇學館論叢第51巻第3号』(2018年)

志摩市

越路陣地(築地のトーチカ。志摩市磯部町築地)

 越路陣地は築地地区の北200mにある丘陵に37mの地下壕を掘って南北を貫通させて、その南端に機関銃用のトーチカを造っています。地下壕の残りも非常に良く貴重です。 

トーチカの外側
トーチカの外側

 地下壕の北入口もほとんど崩落がなく、築造当時の様子がよくわかります。入口付近は斜面を深く切り通して通路を造ってあり、爆風を避け入口を発見されにくくするためと考えられます。

 築地陣地群は、米軍上陸想定地の国府白浜から伊勢神宮へ抜ける峠近くにあり、水際部隊の最後の戦闘地とされていたのかも知れません。

 トーチカは地下壕の先端に造られ、奥壁はなく地下壕に続いています。コンクリート部分の幅は2.4m、奥行きは2mです。

地下壕の北入口の通路壕
地下壕の北入口の通路壕

  参考文献:山本達也「三重の軍事遺跡(1) 志摩市磯部町の陣地群について」『軍装操典第95号』(2009)

野里浜陣地(志摩町越賀)

 野里浜(のりはま)陣地は、野里浜古墳群南端の円墳の墳丘を利用して造られています。

 直径15mほどの墳丘の北側と南側から壕が掘られていて、南側の壕の方向が別の陣地(波田陣地)の背後の浜を向いています。

北側の壕口
北側の壕口
南側の壕口。
南側の壕口。

 おそらく、波田陣地を背面から攻撃された時のための機銃陣地と考えられ、北側から坑道に入って南側に銃座を作ろうとしていたのでしょう。

 壕は貫通しておらず、未完成だったと考えられます。


御座峠陣地(志摩町御座)

 御座峠陣地は御座と越賀の間の峠にあり、建設途中の坑道式掩体が1基残っています。

 大規模に掘削された壁面から坑道が掘られていて、坑道の深さは約20mあります。坑道はその先の砲室までつなぐ予定でしたが未完で終わっています。

坑道の内部。坑木も少し残っています。
坑道の内部。坑木も少し残っています。

 海岸を臨む崖には方形の掘り込みがあり、砲室と考えられます。砲室も未完でコンクリートが使われた様子はありません。

砲室と考えられる掘り込み
砲室と考えられる掘り込み
坑道の入り口と、掘削された壁面
坑道の入り口と、掘削された壁面
掘削された壁面と通路壕を上から見る。
掘削された壁面と通路壕を上から見る。

 坑道の入り口までは岩盤を掘削した通路壕も残っています。道路からも近く、見学しやすい戦争遺跡です。


岩井崎陣地(志摩町御座)

 岩井崎陣地は砲室と考えられる地下壕とU字型の掘り込みが残っています。

 地下壕は入り口の幅4m、深さは約10mで、中には坑木が倒れて残っています。

地下壕の内部。両側が袖状になっている
地下壕の内部。両側が袖状になっている

 地下壕の入り口は崩落して狭くなっていますが、内部は完存しています。

 

 U字型の掘り込みは地下壕の東側にあり、崩落が進んでいますが、外形はわかります。おそらく、この掘り込みの奥から地下壕まで通路壕をつなげようと計画されていたと考えられますが、工事は未完で終わっています。

 

 道路に面して残っているので見学しやすいですが、道路がやや狭いため、自動車の時は注意が必要です。 

地下壕の入り口
地下壕の入り口

 地下壕の入り口を入ってすぐに両側が袖状になり、幅が狭くなっています。25年ほど前には、袖状になった前に丸太が立った状態で残っていたという証言があります。

地下壕東側のU字型の掘り込み
地下壕東側のU字型の掘り込み

北牟婁郡紀北町

紀北町(北牟婁郡)東長島の防空壕

 東長島の片上集会所の北にある山の斜面に、道路に沿って地下壕が整然と並んでいます。

 片上の住民が協力して掘ったもので、内部はコの字型になっています。

 入り口はもともと小さく、後に少し封鎖されていますが、内部に入ることもできます。民間防空壕がこれだけ面的に残っているのは貴重です。


三野瀬駅での機銃掃射の弾痕(紀北町)

 1945年7月25日に、三野瀬駅に停車していた上下線の列車が機銃掃射を受け、13人が亡くなりました。この日はアメリカやイギリスの空母から飛び立った艦上機が三重県各地で機銃掃射やロケット弾攻撃をしています。

銃弾が内部に残る部材
銃弾が内部に残る部材

 銃弾は三野瀬駅の駅舎にも当たりました。駅舎は建て直されましたが、部材の一部が紀伊長島郷土資料室で保存展示されています。部材は2点で、その一つには銃弾が内部にめり込んでいて、間近で見ることができます。


尾鷲市

中村山の地下壕(尾鷲市中村町)

地下壕実測図(山本達也氏作成)
地下壕実測図(山本達也氏作成)

 内部はほぼ完存していて崩落も少ないですが、一部に小学校や地域から棄てられたゴミが堆積しています。入口は施錠されているので、内部の見学には市の許可が必要です。

 非常に保存状態の良い大規模な地下壕で、歴史的な意味も含めて大変貴重な戦争遺跡です。

 なお、市内には熊野灘部隊の慰霊碑や、海防艦「駒橋」の艦首紋章が残されています。

 中村山の地下壕は尾鷲市中心にある中村山にあり、尾鷲小学校に隣接して地下壕が掘られています。

 掘ったのは熊野灘部隊です。熊野灘部隊は1944年1月に第三海上護衛隊の一つとして編成され、海防艦「駒橋」をはじめ、駆逐艇や爆雷艇など8隻が配備されていました。開設当初は海岸に司令部がありましたが、同年12月の東南海地震による津波で壊滅し、尾鷲小学校に司令部を移しました。中村山地下壕は司令部移設時に造られたと考えられます。

内部から入口を見る
内部から入口を見る

 この地下壕は野戦病院としても使われました。

 1945年7月28日。朝の6時前から熊野灘部隊は米英海軍の艦上機による攻撃を受け、攻撃は夕方6時頃まで続いて部隊は壊滅。即死者72名を含む147名の戦死者が出ました。

 負傷者は尾鷲小学校(当時は国民学校)の教室に収容され、地下壕の中でも治療がおこなわれました。治療とは言え、医師や看護師も少なく消毒程度だったようです。国民学校高等科の女生徒(13~14才)も負傷者の治療や運搬に動員されました。 

内部に捨てられた大量のゴミ
内部に捨てられた大量のゴミ

熊野市

朝鮮人追悼碑(紀和町板屋)

 道の駅「熊野・板屋九郎兵衛の里」の国道を挟んだ向かい側に朝鮮人追悼碑が市民団体によって造られています。敷地には、強制連行され名前が判明されている35名の朝鮮人労働者の名前を記した石が置かれています。

犠牲になった朝鮮人労働者の名前を記した石
犠牲になった朝鮮人労働者の名前を記した石
追悼集会に集まった皆さん。21.11.14.撮影
追悼集会に集まった皆さん。21.11.14.撮影

 毎年11月頃に市民団体によって追悼集会が続けられていて、石に記されたお名前もその時に上書きされています。すぐ近くにある鉱山資料館には朝鮮人労働者についての記述がほとんどなく、改善が望まれます。