戦争末期には「本土決戦」のために、全国に本土戦陣地がつくられました。
三重県では志摩半島を中心に多くの本土戦陣地が残っています。
銃眼のあるコンクリート製のトーチカも、志摩半島を中心に13基が確認されています。
内陸部の大紀町でも1基が確認されていて注目されます。
(2023年8月6日に「(4)①鳥羽市安楽島地区」を更新しました)
(4)鳥羽市
①安楽島地区
海軍の特攻基地(震洋)で有名な加布良古岬に、陸軍のトーチカの基礎が残っています。
トーチカは大浜の海岸を東から望む所に作られ、長方形に土と岩盤を掘り、側面をコンクリートで固めています。トーチカの背後には通路壕が作られ、岩盤が直角に削られています。背後の斜面には地下壕もあったそうですが、今は消滅しています。
加布良古岬の北側は海軍の特攻基地、南側は陸軍の本土戦陣地と分けられていたと考えられます。
行者山陣地は安楽島海水浴場を見下ろす尾根の南側にあり、3本の掘り込みが残っています。安楽島海水浴場に上陸した米軍を攻撃するための陸軍陣地です。
掘り込みAは、陸軍が来る前に、軍の命令で安楽島小学校の校長と5年生の数人で掘ったそうで、その後この場所に来た陸軍のことは知らないそうです。
「命令で火薬庫を掘った」という証言があります。
掘り込みCは崩落が進んで、くぼみのようになっています。ここに造られていた地下壕が天井から崩落した可能性があります。
安楽島地区には敗戦直後に、陸軍の部隊から「250着の野良着を用意してくれ」と頼まれたという話が残っていて、兵隊が少なくとも250人いたと考えられます。兵隊が掘った壕だけでなく、小学校の校長と子どもが掘ったものもあることが注目されます。
掘り込みBは明らかに陸軍が掘った通路壕で、延長に地下壕が続くと考えられますが、現在は残っていません。地下壕で尾根を貫通させて、砲台陣地を造ろうとしていたのかも知れません。
小田谷陣地は安楽島でもっとも標高の高い安楽島第一配水池から南に下る谷にあり、現在は居住壕と機械のコンリート台座が残っています。
居住壕はコの字型ですが、未完成で内部が貫通せず、東側と西側の入り口に分かれています。
内部は崩落も少なく良く残っています。西側入り口の奥には当時の坑木も散在しています。おそらく尾根上に加布良古水道方面を狙う砲を据え、反対側に居住壕を作ったと考えられます。
機械のコンクリート台座は、居住壕から少し下った所にあります。2基作られていて、形状から発電機とコンプレッサーの基礎と考えられます。
陸軍の機械台座は、三重県では他に見つかっておらず貴重です。
さらに下った所に地下壕の一部が残り、他にも地下壕の痕跡かも知れない遺構もあります。安楽島地区から小田谷に続く旧道沿いに陸軍の監視所が作られ、宿舎跡が残っています。家屋は戦後に修築されていますが、基礎と床面は当時のまま残っています。
戦争中に山の上まで大砲を運び上げたという地域の証言もありますが、砲台を作ったと考えられる尾根付近は戦後の開発により削平されています。
②答志島
答志東漁港北側の岬に造られている坑道式掩体で、八幡社に向かう橋の東詰に入り口があります。坑道は全長17.8mで最奥部に銃室と銃眼が作られています。
銃眼などにコンクリートは使われておらず、銃眼も岩盤をくり抜いています。
内部に坑木が残り、部分的に天井の板が残っているのも貴重です。見学する時は不用意に柱に触らず、現状を壊さないように配慮して下さい。
また内部には水が浸いている時が多いですので、長靴を準備した方が万全です。
打越陣地は岩屋山古墳のある尾根上一帯に広がり、掩壕と見られる土の掘り込みやコの字型地下壕などが残っています。
注目されるのは陣地の南端にある岩屋山古墳です。横穴式石室のある6世紀の円墳ですが、陣地壕として利用されたために石室の奥の壁が破壊されています。
破壊された石室の北側には墳丘を削った交通壕も残っています。
岩屋山古墳は鳥羽市の指定文化財になっていますが、戦争遺跡としても貴重です。
③菅島
白浜陣地は菅島の「しろんご浜」の西の谷にあり、陣地壕1本などが残っています。
陣地壕は深さ約10mで短いですが入り口は完存していて、入り口の外は通路のために崖を削平した様子もよくわかります。
陣地壕は未完成ですが、しろんご浜まで壕を伸ばしてトーチカ状のものを作り、しろんご浜に上陸した敵を射撃する目的だったと考えられます。
また、陣地壕の南西にも方形の掘り込みがあり、陣地壕との関連が考えられますが、詳細は不明です。
陣地壕は、しろんご浜のすぐ西側の谷を降りれば見つけやすいですが、山歩きに慣れていない場合は案内が必要です。
参考文献:扇野耕多「研究ノート 菅島の戦争遺跡」『皇學館論叢第51巻第3号』(2018年)
アゴケ谷陣地は菅島の監的哨の近くにあります。
深さ7mほどの地下壕が残り、未完成のまま敗戦を迎えたと考えられます。地下壕入り口から通路壕が3mほど作られていて、今もよく残っています。
「監的哨」の周辺にもいくつかの掘り込みが残っていて、関連が考えられます。
遊歩道から西に斜面を降りた所にありますが、見つけにくいので案内が必要です。
参考文献:扇野耕多「研究ノート 菅島の戦争遺跡」『皇學館論叢第51巻第3号』(2018年)
ボシ山陣地は、遊歩道から監的哨に登るT字路から、南に下る谷にあります。谷の東側に陣地壕、その西側に交通壕や、掩体と考えられる掘り込みが3ヶ所あります。
陣地壕は長さが約16m、幅と高さは約2mで、中には坑木が残っています。
遊歩道から近いですが、道のない斜面を下りるので、案内があった方が無難です。
参考文献:扇野耕多「研究ノート 菅島の戦争遺跡」『皇學館論叢第51巻第3号』(2018年)
長崎陣地は菅島の南東にある黒崎(長崎鼻)の近くにあり、弁天神社の東90mの丘陵北向き斜面にあります。確認した菅島の3ヶ所の陣地壕の中では最も規模が大きく、全長45mで入り口は二ヶ所、一ヶ所の銃眼はおんま浜を臨んでいます。
銃眼から機関銃でおんま浜を狙う銃室と棲息スペースが通路壕で結ばれていて、複雑な壕の形は爆風除けと考えられています。保存状態の良い陣地壕です。
長崎陣地へ行くには弁天神社を目ざしますが、そこからは道がなく見つけにくいので、案内が必要です。
参考文献:扇野耕多「研究ノート 菅島の戦争遺跡」『皇學館論叢第51巻第3号』(2018年)
(5)大紀町
三重県内のトーチカは志摩市の海岸に集中していますが、このトーチカは志摩から直線距離でも40km近く離れた山間部にあります。トーチカは「寺山」の山頂近くの尾根に造られ、重機関銃で山裾の道路を狙ったものと考えられます。
トーチカの銃眼は一つで、銃眼の外側に鉄製のフックが残っているのが注目されます。これは銃眼につけた蓋を開閉させるためのものと考えられます。海岸部のトーチカで
は塩分などで残りにくいので貴重です。
近くにはコの字型の地下壕や「タコツボ」と呼ばれる個人用の穴の痕跡2こも残っています。コの字型地下壕はトーチカを構築中に敗戦を迎えたと考えられます。
志摩半島でトーチカを造ったのは陸軍の歩兵第442連隊ですが、その一部がこの周辺に配備されていたことがわかっています。海岸部以外でも本土戦陣地が本格的に造られていたことがわかります。
参考文献:山本達也「三重の軍事遺跡(7) 大紀町野添の本土決戦陣地」『軍装操典第132号』(2018)
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内のどこかから残部が出てきましたら、お知らせします。